戦国策列伝
☆☆☆人の前で上手に話す方法を徹底追求☆☆☆



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《蘇秦・張儀列伝》
 縦横家で有名な蘇秦と張儀は、若い頃より弁舌で身を立てようとして、鬼谷子の下で机を並べて一緒に学びます。鬼谷子の下を去った後、二人はバラバラに遊説しますが、どちらも採用されるまでには至りませんでした。特に蘇秦は、秦に遊説に行って、大いにバカにされます。そこで蘇秦は、一念発起して、再度、勉学に励んで、相手の心を読み取る術を身につけます。そこで、再び遊説に出たところ、趙王に認められて、宰相の地位に着くことができたのです。

 趙の宰相になった蘇秦は、趙以外の他の五ヶ国にも出向き、共に秦に当たろうと説いて、それぞれの国の宰相に任ぜられます。蘇秦は六ヶ国の宰相を兼務したのです。そして、この六ヶ国を同盟させ、六ヶ国共同で秦に敵対するという合縦の策を展開するのです。しかし、蘇秦には、一つ気がかりなことがありました。それは、秦の横槍です。秦が、横槍を入れて、この六ヶ国連合を潰しにかかろうとすることは、簡単に予想できたからです。そこで、蘇秦は、気心の知れたものを秦に送り込もうとします。そこで、白羽の矢が立ったのは、まだ仕官していなかった旧友張儀だっのです。

 蘇秦が声をかけると、張儀は喜んでやってきました。ところは蘇秦は、自分から声を掛けていたのに、張儀を冷たくあしらうのです。また、宰相になった自分を自慢し、仕官さえできていない張儀をバカにしたのです。このように仕打ちを受けて、張儀は怒り、発奮します。蘇秦に目にものを見せるためには、蘇秦が宰相をしていない秦しかないと。秦の宰相になって、蘇秦を見返してやるんだと、一路、秦を目指します。実は、これは蘇秦の策略でした。張儀をなんとか秦の宰相にさせたかったのですが、普通に頼んでも、張儀は宰相になれないだろうと感じました。張儀の才覚であれば、秦の宰相でも容易いことは知っていましたが、張儀はなかなか本気にならない性格でした。先に秦に遊説に行って失敗している蘇秦は、生半可な説き方では、絶対に秦では採用されないと考え、張儀を発奮させるために、敢えてこのような非礼に出たのです。

 張儀は、秦に向かう途中、一人の男と出会います。その男も、秦に行くということで、共に旅をすることにします。張儀は、旅の途中で、この男と打ち解けあい、秦に行く理由などを話します。すると、男は、張儀に同情し、秦までの旅費の肩代わりや、秦での仕官の世話まで引き受けてくれたのです。張儀は、男の用意してくれた伝手を使って、まんまと仕官に成功します。そして、蘇秦憎しの気持ちで必死に秦王に仕え、本当に、宰相にまで上り詰めるのです。宰相になった張儀はその男を呼んで、これまでの恩に手厚く報いたいと申し出ます。このときになって、初めて男は、これまでの経緯の全てを張儀に伝えます。自分は蘇秦の部下であること、張儀への援助は蘇秦の命令であること、当然、仕官の世話をしたのは蘇秦であること、蘇秦が非礼な態度をしたのは張儀を発奮させて秦の宰相にさせるためであったことを伝えたのです。そして、蘇秦が張儀を秦の宰相にさせたかった理由、つまり六ヶ国連合に秦の横槍を入れられたくはないという願いも伝えたのです。これを聞いた張儀は、嘆息して言います。
 「わたし、蘇秦の能力に遠く及ばない。今の今まで、蘇秦の掌の上で動いていたとは、つゆほどにも思わなかった。そんな私が、蘇秦に敵対して勝てるだろうか。蘇秦に安心するように伝えて下さい。張儀は、蘇秦がいる限り、六ヶ国連合に横槍は入れないと・・・・。」

 張儀は、蘇秦の恩に厚く感謝し、蘇秦が生きている間は、決して六ヶ国連合を崩そうとはしませんでした。彼の理論である連横の策は、蘇秦の死後、初めて展開されることになるのです。



《「戦国策」の弁舌術》
 「戦国策」という書物は、周王朝末期の戦国時代に、諸国を口先三寸で遊説していた説客の逸話を収録したものです。戦国時代というのは、「戦国の七雄」と呼ばれる魏、韓、趙、斉、燕、楚、秦の七国が、中国を分割統治していた時代でした。春秋時代には、数百もあった国々が争い、併呑され、七ヶ国に統合された訳です。

 戦国時代というのは、国王よりも、その下にいる諸侯が絶大な権力を握っている時代でした。春秋末期になると、「春秋の五覇」を出して、繁栄を極めていた斉、晋でも、共に重臣達に、国を乗っ取られてしまいます。斉では大臣の田氏が国王になり、晋では、大臣の魏氏、韓氏、趙氏が国を三分割してしまいます。他にも、孔子の出身国である魯は、三桓と呼ばれた重臣達に、国王が追放されます。論語の中で、「十五にして志を立つ。」という一文がありますが、この追放事件が起こったのが、孔子15歳のときだった訳です。孔子の志しというのは、魯王を再度、王に復位させて、三桓の専横を排除しようというものです。儒家思想は、このような情勢を反面教師として、成立しているのです。このような時代でしたから、歴代の家臣であっても、国王としては信用できなかった訳です。ですから、縦横家と呼ばれる説客達が、活躍できる時代でもあったのです。

 縦横家と呼ばれる彼らは、自説を説いて国王や大臣に取り入り、宰相にまで上り詰めることを目指していました。国王としては、有力家臣を宰相にするよりも、その力を抑えて、自分と自国の反映を目指す必要があったのです。この縦横家たちを、積極的に受け入れたのが、後に中国全土を統一する秦でした。もともと秦は、中華では、西戎と蔑まれた国でしたが、他国出身の商鞅を宰相にすることにより、飛躍の足掛かりを作りました。その後も、百里奚、范しょ、張儀、呂不偉らを受け入れて、終には中国全土を統一することになります。このため、戦国時代の後半からは、秦対六ヶ国という対立の構図になります。

 縦横家というのは、秦と結んで他国を侵略するという連横の策と、6ヶ国が協力して秦に当たるという合縦の策の二文字を取ったものです。前者は、縦横家の代表である張儀の策であり、後者は蘇秦の策です。張儀はこの策で、秦の宰相まで出世しますし、蘇秦はこの策で、秦以外の6ヶ国の宰相を兼務しました。この頃には、秦以外の各国は、秦に対して、どのような対策を取るかが、その国にとっての主要課題だったということを物語っています。

 「戦国策」は、この代表的な蘇秦、張儀以外にも、当時の多くの政治家や説客たち逸話を記録しています。彼らは、悪く言えば、口先三寸で、出世しようとしている者たちですから、その口先に命を賭けています。それこそ、失敗すれば殺されるという窮地に立ちながら、弁舌を振るっていたのです。これを考えれば、今の我々が経験する面接や、プレゼンなどは、怖がるものがどこにもありません。口先だけで出世し、生き延びた彼らの知恵を、これから経験する面接とかで役立てましょう。

 戦国策は、全十二国の策からなっています。「西周策」、「東周策」、「秦策」、「斉策」、「楚策」、「趙策」、「魏策」、「韓策」、「燕策」、「宋策」、「衛策」、「中山策」の12策です。


《「戦国策」を楽しむために》
 戦国策を楽しむには、その時代背景を詳しく知ることが一番だと思います。そこで、この春秋戦国時代と呼ばれる時代の背景を説明したいと思います。

 太公望の活躍により、周の武王は、殷の紂王を倒して、周王朝を開きます。武王は、一族や功績のあった家臣たちを諸侯に任命して、それぞれに都市を所領として与えて、都市国家を建設させます。太公望には斉を、周公丹には魯を与えたように、多くの者に与えました。王朝初期には、その数は、数千にもなったということです。ところが、時代が経るに連れて、周王朝の力が弱まると、諸侯達は勝手に争い、所領の併呑に明け暮れるようになります。特に周王朝が、北狄に侵略されて、その侵攻から逃れるために首都を遷都すると、諸侯の周王に対する神格的信仰が剥がれ落ち、周王による統制が効かなくなり、この動きが顕著になります。これが、春秋時代の幕開けでした。

 多くの諸侯は、我先にと周辺の諸侯を侵略し始めます。弱肉強食の時代に突入したのです。この中で、特に領土拡大に熱心だったのが、晋、斉、楚でした。三国とも、百にものぼる国を討ち、併呑していったのです。特に南方の楚は、中原諸国に南蛮と見下されていたため、自らを王と名乗り、周王に対して楚王と称して敵対するようになりました。この時代の中国というのは、黄河流域のみを指していました。今の上海や武漢、重慶、成都という地域は、異民族の国として蔑視されていたのです。ですから、諸侯の国というのは、中原と呼ばれる黄河流域に集中していました。楚は、周王朝を倒すべく、中原諸国へ触手を伸ばしていったのです。これに対して、周王は、なんとか楚の侵攻を防ごうとします。しかし、周には、往時の力は残っておらず、到底、楚には対抗できませんでした。これに対して、中原諸国は、団結して楚の侵攻に対抗しようとします。中原諸国にとっては、楚は蛮族の国という認識が強く、そのような国に臣従できないということで、利害関係が一致したからです。

 そしてこの動きの中心人物になったのが、斉の桓公でした。桓公は、管仲の補佐を受けて、周王を奉じて、礼によって諸侯を統率するようになります。これにより、後に覇者と呼ばれるようになります。この覇者の称号を受け継いだのが、晋の文公であり、秦の穆公であり、宋の襄公である訳です。そういう意味で、春秋時代の前期は、周を奉じた五覇と、楚の戦いであった訳です。しかしこの対立も、晋の宰相趙武によって、晋と楚の同盟がなり、楚の侵略は、なりを潜めるようになります。

 後期になると、周王が諸侯に蔑ろにされたように、今度は諸侯が臣下に蔑ろにされはじめます。それは、強国であった晋と斉が、相次いで後継者争いで内紛を起こしたからです。晋では、献公の時代に驪姫の乱が起こり、多くの公族が晋から離れてしまいます。その後、復帰した文公は、覇者として天下に威を示しますが、文公以後は若死にした君主が多く、幼君が継ぐことが多くなったため、必然的に君主の権力が弱まり、臣下の権力が増してしまったのです。また斉でも、陳から亡命してきた田氏が、君主の権力を凌ぐようになり、君主の権威を形骸化させてしまったのです。そして、晋では、魏、韓、趙(趙武の子孫)の三氏が国政を壟断するようになり、終には晋を3分割して、晋公を庶民に落としてしまいます。また、斉でも、田氏が斉公を攻め殺し、公位を簒奪してしまいます。俗に、晋が三分割された時点が、春秋時代の終了ということになっています。

 春秋時代初期には300程度あった諸侯は、戦国時代初期には、二十程度にまで減っていました。その中でも、特に強大であったのは、晋を三分割して出来た魏、韓、趙。それと春秋時代の強国から生き残った斉、楚。更に北方にあったために中原諸国の騒乱に巻き込まれずに力を蓄えた燕。最後に、商君の変法で国政改革をして断行して、一気に力をつけた秦の七ヶ国でした。俗にこれらを、「戦国の七雄」と呼んでいます。

 ここで注目すべきは、楚の凋落と、秦の躍進です。春秋時代の楚は、中原全体を敵に回して戦えるほどの強国でしたが、戦国時代になると、他の六ヶ国と同程度の国力にまで成り下がってしまいます。これは、楚が国体改革を怠り、春秋初期の王族中心とした国家でい続けたからです。既得権の上に座り続けている者たちが、自分達の権利を放棄してまで、富国強兵のために国政改革をすることはありません。国内での派閥争いを繰り返し、結果として、自分達の所属するグループの相対的な地位の低下を招いたのです。これに対して、秦は、西戎と蔑まれた小国から、大国への仲間入りを果たします。これは、「商君の変法」、つまり、中央集権国家として、富国強兵が実現されたからです。商鞅は、富国強兵のために、派閥争いの元となる公族や貴族の力を弱め、君主による親政を実現させたのです。また、徹底的な法治主義国家の創設により、実力社会を実現させ、国民にやる気を生み出させたのでした。他国でも、君主の権力を強化した中央集権国家の実現を試みられていたのですが、その尽くは、公族や貴族によって、反対され、実現できませんでした。唯一、秦だけが、それを成功させたのでした。

 戦国時代の初期、大国といえば魏でした。晋の後継国という自負があった魏は、周王を奉じて、諸国に号令をかけようとしていました。ところが、一人の逸材を秦に逃してしまいます。実は、それが商鞅だったのです。商鞅を受け入れた秦は、商鞅の進言に基づいて、国政改革に乗り出します。そして、魏が斉と覇権を争って敗れている間に、秦は国政改革に成功し、中原諸国に圧力を加え始めるのです。これに対して、中原諸国は、斉を中心として、晋の動きを牽制します。趙の宰相だった蘇秦は、秦以外の6ヶ国と連合し、合従の策を実現します。ところが、蘇秦が死ぬと、張儀が現れ、連横の策を唱えて、簡単に6ヶ国連合を切り崩してしまいます。そこに現れたのが、孟嘗君田文でした。孟嘗君は、桓公と同じように礼を唱えて、斉が中心となって諸侯を糾弾して秦と戦います。しかし、斉も孟嘗君がいなくなってから凋落します。燕の楽毅に攻められて、2都市のみを残して、滅亡しかけます。ところが、この楽毅も、燕王に疎んじられた末に、趙に亡命すると、斉では田単を将軍として、一気に旧土を回復します。しかし、一度失った覇権は、取り戻すことはできませんでした。

 戦国時代後期になると、秦の一人勝ちの状態となります。隣国の韓は属国化し、魏は領土の半分を削られ、趙や楚も、秦の動向に怯えます。そして秦は、またしても、一人の逸材を手に入れて、覇権を確実なものにするのです。それが韓非です。秦王政は、韓非の著した書物どおりに国体を整備し、他の六ヶ国を攻め滅ぼしてしまいます。そして、中国全土を統一し、秦帝国を建国し、自らを始皇帝と名乗ったのです。

 この春秋戦国時代を通して言えることは、旧態依然としていた国家は滅んで、改革をした国家が生き残ったということです。 春秋の当初は、晋、斉が他の諸侯を討ち従えるために、富国強兵を目指して有能な人材を登用し、小さいながらも国政改革を実施していました。後期になると、中原以外の秦が百里により、呉が伍子胥と孫武により国体を改革し、中原に覇を唱えます。しかし、この頃の改革も、まだまだ小さいものでしかありませんでした。 そして戦国期に入ると、まず、魏で、呉起が中央集権国家の確立を目指します。そして、一時は武公に覇を唱えさせる寸前まで行きますが、武公の死により、改革半ばで反対派の貴族たちに殺されてしまいます。それに対して、秦では、商鞅による改革に成功し、中国統一の為の布石を作ります。しかし、商鞅も、孝公の死後、その改革を恨む者たちに殺されてしまいます。斉では、恵王の下孟嘗君が調和政治を行って、一時は諸侯の盟主的な存在になります。しかし、恵王の死後、孟嘗君ですら、斉を追われて、魏に亡命しています。趙では、武霊王の親政により、多くの改革を行います。その結果、中山国を滅ぼし、秦の征服も試みますが、それに反対する者たちが息子の恵文王を奉じて、武霊王を餓死させてしまいます。また、燕では、昭王の下、楽毅による改革に成功し、斉を滅亡寸前にまで追い込みます。ところが、昭王の死により、楽毅は燕を追われ、趙に亡命します。

 このように、改革施行者たちは、その志半ばで、非業の死を遂げたり、国を追われたりしています。それは、改革そのものが痛みを伴うものであり、既得権を有する者たちにとっては、それを奪われることによる怨嗟の対象にしかならないからです。しかし、改革を行わなかった国、例えば韓や楚は、一時の盛隆もなく、滅亡しています。改革者は、既得権を有しないものとなりますから、当然、下層階級か、他国出身の者となります。改革なくして国家存続なし、ということで、多くの国は、説客と呼ばれる他国出身者を受け入れていったのです。商鞅、蘇秦、張儀、楽毅は皆、他国出身者なのです。しかし、他国出身者は、強固な地盤を持ちませんから、悲しいかな、その後ろ盾を失った場合は、簡単に殺されてしまいます。戦国策に登場する多くの改革者が、その晩年を不遇に過ごした事をみれば、それは明らかです。


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